家の門構えと抜け感について

門構えについてよく考えることがある。

東京の家はお金持ちであればあるほど道路側に向けて閉鎖している家が多いような気がする。境界線沿いにぐるっと回る立派なコンクリートの壁、高い生垣。2台分の車庫の扉、人が行き来するための格子扉。格子扉の後ろにある玄関扉。開くことのない透視防止レースカーテン。そして極め付けのセコムのシール。当たり前のことだが、用がない人は来ないでくださいと言うメッセージをしっかり送っている。江戸時代の家の門構えの名残なのだろうか。もしくは超有名人が住んでいるのか。気になってしまう。

アメリカでは必ずしもお金持ちの家が閉鎖的な趣になっているというわけではない。パパラッチに追いかけられるようなセレブは門構えとセキュリティを徹底して前面道路から家さえも見えない状態にする。しかし、一般人の家の場合、日本のように閉鎖的にしている家をあまり見かけない。完全に閉じているように見えてどこかで抜ける場所がある。日本のファッション業界でこぞって使う言葉、「抜け感」はアメリカでは門構えのセンスに起用されているのだ。そしてこの「抜け感」が家を家らしくみせる時がある。下の写真の立派な家の門扉はなぜか開いている。いらっしゃい!なのか、おかりなさい!なのかわからないが、とにかくウエルカムな雰囲気と優しさを感じる。恐らく境界線を超えた時点でセキュリティのレーザーが感知してオーナーに連絡が行き、警察沙汰になるであろうから用なく入ることはないが・・・

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下の写真の家は生垣の間に挟まれている。格子の門扉もあり、一見日本の家のような趣に見える。しかし、前面道路に面した大きな窓にカーテンはない。ろうそくのディスプレイが手前にそしてその奥にはリビングルームが広がる。抜けている。この窓一つで、一見閉鎖的に見える2次元のファサードが3次元の奥行きを生み出し家独特の暖かさやぬくもりを表現しているから不思議だ。

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夜になってもカーテンを閉めることはないだろう。灯りをつけて人が集う時も通行人に御構い無しである。もちろんこれがベッドルームだったら話は別だ。しかし、この部屋はリビングルーム。家の中の共有スペースである。別に隠す必要性はないじゃないか。とでも言っているようだ。TRAVELと書かれた本がかっこいい。

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こちらの家に門構えはない。簡単にセールスマンは玄関扉までお近づきになることができるのだが、このフッサフサの植栽が彼らの行動を邪魔する。清らかな家庭の領域に邪悪な奴はくるなとでも言われているような錯覚に陥るからである。家を這うように育つ生命力で溢れんばかりの植栽は精神的に門構えの役割を果たしているのかもしれない。そしてこちらの家もさりげなく「抜け感」を選出している。1階の窓からダイニングルームが見えるのだ。

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素晴らしいダイニングルームだ。赤いテーブルクロスの上に銀食器が並べられている。椅子は8脚ほどあるのだろうか。奥の壁には絵画。なんとも優雅で立派だ。

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今回の写真は全てパロアルトの住宅街を散歩した時に撮ったものである。いろんな形の「抜け感」を見つけるたびに立ち止まって考え込んでしまった。夜になるとより家の中の奥行きが見えて面白いのだが、さすがに変質者と思われるのは嫌だったので夜の写真は撮っていない。

家は住まい手にとって一番落ち着ける場所であるべきだと思う。結果的にそれが厳重な門構えと閉鎖的な作りになるなら、それはそれで構わない。住まい手の性格がオープンな作りに抵抗を感じさせることもあるであろう。家はプライバシーを守るべきだし、住まい手が落ち着けなかったら何の意味もない。しかし、閉鎖的な趣向であれ、オープンな趣向であれ、願わくはどこか一箇所、道行く人が感じる「抜け感」を演出してくれたらと思うのだ。